――jurer――

こちらは、田丸まひる・張河子静の三国志、堅瑜ベース策瑜リレー小説のページです
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jurer 最終話(張河)

 誓いとちがう愛情をもって、君に会そう。
 だけど、分かっておくれよね。
 誓いとちがうが誓いにちかい。



 周瑜が自分のもとに馳せ参じたと聞いた時、俺はやはり来てくれた、と思わずにはいられなかった。


 周瑜が、まっすぐまっすぐ、俺を見る。
 「死が二人を分かつまで、そばにいて」
 もう誓わない彼が、とても真摯に俺を見た。
 「それは、先に俺がお前に頼んだ事だ」
 唇の、柔らかい感触に酔うかと思う。
 「そうだね。・・・そうだね」
 雨足過ぎて、静寂。
 沈黙が、恐ろしい時期があったのだ。
 こんな、穏やかな沈黙がある事を、忘れていた。
 何も知らない頃は知っていた事を、忘れていた。
 「俺のそばに、いてくれるか?」
 周瑜が、握った手に力をこめる。
 笑おうとして、失敗した顔をして。それでも息を吐いて、頷いた。
 「うん。・・・そばにいる。伯符は?」
 「いるよ。いさせてくれ」
 笑おうとして、失敗した顔になる。
 二人して、ちょっと涙ぐんで、互いを想い合って、抱擁する。
 これは大切だ。
 俺の大切なものだ。
 何も知らない頃に知っていた事を、思い出した。
 生涯、大切なものだ。



 「公瑾、ちょっと外出てみろよ。星が綺麗だ」
 すっかり雨も止んで雲もはれた空を見上げる。
 満天の星というのだ。月も、綺麗だった。
 「ほんと、綺麗だね」
 長い裾を引きずらないように気をつけながら、周瑜は出てくる。
 「寒くないか?」
 小さく問えば、大丈夫だよと笑った。
 肩を抱き寄せて、腕の中に包み込む。
 体温が心地よいということも、思い出した。
 「おや、伯符様もおられるね」
 ほんの少し欠けた十六夜を見上げ、周瑜は言う。
 俺が昔よくした自慢話を、しっかり覚えているらしい。
 「あれはお前を見守るための化身だからな。いなきゃ困る」
 やっつけ、少し俺は苦笑しつつ言った。
 きろりと周瑜がこちらを見る。
 「・・・何だよ」
 「ふぅん。でも、お月様は薄情だからね。欠けたり満ちたり消えたり隠れたり。あまりアテにならないかも」
 「む」
 月に目を移す。十六夜。早速欠け始めた月が煌々光っていた。
 「うーむ、そうだなぁ。俺も結構、薄情者だからなぁ―――・・・」
 月明かりに周瑜が浮かぶ。意地の悪いことを言う俺を、意地の悪い目で見上げていた。
 「ひどいな」
 「おう。だからさお前、もし俺がさっさとお前を置いてったら、別に俺に操立てなんかしなくていいからな」
 くしゃくしゃに周瑜の髪を撫でる。
 周瑜は少しだけ不敵に笑って、腕からすりぬけた。
 「分かってるよ。そんな薄情者、あっという間に忘れてやるんだから」
 「や、少しくらい覚えててくれてもいいだろ」
 軽い不満の声に、周瑜が裾を翻す。
 月下美人、まるで踊るようだ。
 「あはは・・考えておくよ」
 そうして笑う。屈託なく笑う。
 ああ、まるであの頃、そのまま。
 そっと近づいて、滑らかな頬に手を添える。
 「・・・そういうお前の笑った顔、本当に久しぶりに見たな」
 くすぐったそうに、周瑜ははにかんだ。
 「伯符」
 「やっぱり、すごく、綺麗だ」
 もう見れないと思っていた。
 きらきら、君が笑う。
 この星空のように、きらきら笑う。
 添えた手に、周瑜の手が重ねられた。
 「・・・俺はやっぱり、父上に似てるか?」
 「そうだねぇ、・・・やっぱり似てるかな」
 「そっか」
 「うん。でも、伯符は伯符だって、漸く分かった。
  ―――・・・貴方は、今私が一番大切だと思っている、孫伯符だよ」
 また、周瑜はまっすぐまっすぐ、俺を見る。
 お前も、逃げないんだな。
 もう、誓わない。
 それでも生涯大切なひと。
 「俺とお前は、義兄弟で、恋人で。それからかけがえのない親友だ。こんな相手、きっと生涯一人きりだよな」
 「うん」
 

 誓わない関係なんて、それはまるで“友達”のようだけれど。
 そんな間柄でいられるのは、きっと俺だけだから。
 やっぱり俺は、俺である事を誇りに思うよ。
 「明日から、またよろしくな、親友!」
 満天の星空。世界はこんなにも、煌めいている。





                      完
 
| 張河子静 | jurer | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第20話(田丸)

 絶対に誓わないと、伯符は言った。
 誓いも許しも、もういらないのだと。
 誓いが、私をずっと束縛してきたのだと。

 救われる。
 こぼれた涙を、掬われる。

 でも、伯符。私は、束縛なんて怖くない。苦しくなんて、なかった。
 ――怖くない?
 ――苦しく、なかった?
 言いかけたくちびるをふさがれる。
 「同じことを繰り返して、お前を苦しめるのは嫌だ。だから、俺は誓わない」
 なんでそんな、穏やかに笑える。
 「そのくせ、一緒にいて欲しいなんて、やっぱり自分勝手かな」
 「伯符……」
 自分勝手なのは、私だ。
 背中を抱きしめてくれる腕を外して、長い指を探す。
 指をからめると、ぴたりと繋がったような気がする。
 額に押しつけると、安心できたのです。
 「伯符は、自分勝手なんかじゃないよ」


 文台さまは、私に誓ったわけじゃない。
 ずっと瑜をおそばにおいてくださいますかと、聞いたときにも、困ったように笑っていた。
 分かっている。戦に命をかける者が、そんなこと約束できるわけない。
 だから、誓ったのは私だ。
 いつまでも文台さまのそばにいると。
 生きるときも死ぬときもご一緒しますと。
 無理やり誓ったのは、私だ。
 「瑜、自分で自分を束縛するな」
 「違います。束縛なんかじゃない。瑜が、こうしたいのです」
 「お前が苦しむ姿など、」
 「見せません」
 きつくからめた小指を、離さないでいてくれたこと、どんなに嬉しかったろ。
 「だが、瑜、後追いだけはするなよ」
 あれは苦笑じゃなくて、心からの笑みだった。
 今の伯符に似た、穏やかな笑い方。
 「なぜ?」
 「俺が望まぬ」
 「……御意」
 だから、今も、生きながらえている。
 だから、もう一度、今度こそ、伯符と。


 ――文台さま、瑜は、

 「もう、誓い、破ってもいいんだ、公瑾」
 からめあった手を、孫策も自分の額に押しつけていた。
 二人して、祈るようなかたちになる。
 でも何も祈っていない。何も、誓っていない。
 「だから、公瑾、誓いなんて関係なしに、」
 ――瑜は、
 「伯符、」
 「公瑾?」
 いきなり言葉を遮られて、孫策が怪訝な顔をする。
 その額に、今度は自分から額を押し当てた。
 「もう、一人にしないで、」
 「……公瑾」
 孫策の目尻が歪む。そうじゃない。
 でも、嗚咽でうまく喋れない。
 「っ、なんて、もう、言わないから、」
 ――もう誓いません。
 「そばにいて」

 「死が二人を分かつまで、そばにいて」
 まっすぐまっすぐ、見据えた。


 受け入れるのではなく、自分から押しつけた唇は、柔かった。
 気づいたらもう、雨がやんでいた。
 静か、だった。


                 続く
| 田丸まひる | jurer | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第19話(張河)


 簡単にこぼれ落ちるんだ。
 それは、自分にとって周瑜の心のようなものだった。
 何度も。掴めず、掴めず、こぼれ落ちた。
 今も思う。掴めているのか、またこぼれ落ちるのか。
 周瑜の髪は、とても綺麗に、こぼれ落ちた。


 だけど、ああ、俺はいつも己のことばかりで気付くのが遅い。
 「だったら、誓って」
 こぼれ落ちていくものをどうすることも出来ずに。
 ひたすら嘆いてきたのは、周瑜の方なのだ。
 恐れてきたのは、周瑜の方なのだ。


 手を伸ばす。
 細い肩に触れる。
 僅かに、震えていた。
 「伯、符」
 引き寄せる。
 抱き締める。
 震えはおさまらない。
 「公瑾」
 頭を撫でる。
 背中を撫でる。
 細い息が吐かれた。
 誓いにちかい情をもって、周瑜を愛そうと決めていた。
 けれど決して誓いはしないのだと、決めていた。 
 「・・・誓えば、お前は安心するのか?」
 周瑜の額が、胸に押し付けられる。
 答えなかった。
 「いつでも誓ってやる。それでお前が、幸せになるのなら」
 息を殺す周瑜は苦しそうで、何度も背中を撫でる。
 答えは求めない。
 俺は分かっていて、言っている。
 「だけど、そうじゃないんだろう?」
 周瑜の顔を仰向かせる。
 目を合わせた。逸らすことを許さずに、手を添える。
 黒い、赤い、光を目尻で弾く、目。
 あの日の目も、このようだった。
 俺が決して誓わないと決めた日の。

 「だから俺は、絶対に誓わない」

 周瑜の顔が、崩れた。
 「・・・いや、だっ・・・」
 絞り出すような悲鳴をあげて、周瑜は溜め込んでまだ涸れない涙を流す。
 「そうしたら・・・・私、どうしたらいいのか・・・分からないよ」
 周瑜の手が背中を抱く。服ごしからでも爪が食い込んだ。
 「公瑾」
 「誓って、・・・誓ってよ・・・」
 「公瑾」
 「どうして、」
 あのな。
 俺はあの日、憎んだのだよ、公瑾。
 お前を、このようにした。
 誓いというものを、俺は憎んだのだ。
 誓いがお前を、このようにした。
 そうだろう?
 かように、かように、ひどい束縛を。
 「俺は・・・誓いを破りたいんだ」
 上手く伝わらなかったかもしれない。
 だけど周瑜は目を見開き、唇をきつく結んだ。
 俺は、誓いを破りたい。
 そうしなければ、お前はまたこぼれ落ちてしまうだろうから。
 それはとても強靭なもので、楽に破棄せられないものではあるけれど。

 伯符が私を愛してくれるのと同じように、愛するなんて許されますか。
 愛していいのかどうか分かりません、文台さま。

 誓約は制約。
 いつまで守ってりゃいい。
 いつまで父に、許しを請えばいい。
 もう時効だ。それを俺が、教えてやる。
 周瑜の頬に流れる、とめどない涙を拭った。
 よく聞け。
 俺は今から、お前達の誓いを否定する言葉を吐くから。
 「愛していいんだ。愛されていいんだ。許しなんか、いらないんだ。誰も・・・お前を責めたりなんか、しないから」
 もし、俺が誓い、それでもお前を置き去りにしたら、今度は誰が我々の誓いを破ってくれるだろうか。
 誓えばお前は、俺を一途に想ってくれるのかもしれないけれど。
 同じ思いは、させたくない。
 「伯符、私、は・・・」
 唇で、言葉を塞ぐ。
 愛しいな。

 あの頃、俺は自分のことしか考えられない子供だった。
 今、お前を一番に考えてやりたいと、思う。
 「同じことを繰り返して、お前を苦しめるのは嫌だ。だから、俺は誓わない」
 だから、お前も誓わなくたっていいよ。
 父を愛したように、愛してくれなくたっていいよ。
 「そのくせ、一緒にいて欲しいなんて、やっぱり自分勝手かな」
 ただ、お前を愛しく想う、俺の気持ちだけ認めてくれ。


 誓いとちがうが、誓いにちかい程、お前のことを愛しているよ。



                         続く
| 張河子静 | jurer | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第18話(田丸)


 目は、覚めていた。
 それでも孫策が戻ってきたときには、眠っているふりしかできなかった。
 どうやって向き合えばいいのか、分からなかった。
 だから、孫策に手を握られて問いかけられても、ずっと目をつむっていた。
 「どんな、気持ちだった?」
 苦しい。孫策の細かい震えが伝わってくるのが苦しい。
 孫策に会わない間、自分がどんな気持ちでいたか思い返すのが苦しい。
 孫策の手の温かさが、愛おしい、なんて。
 「でもどんなに辛くても、お前がいないのは寂しかったな」
 寂しかった。
 ひどいことをしたとか、もう許されないだろうとか、思っていた。
 でも、それ以上に、なんて勝手だったんだろ、寂しかった。
 自分で終わりにしたくせに。
 寂しい。
 目の奥が痛い。
 孫策の手の力が少しだけ強くなったとき、崩れた。

 「…たし、だって…寂しかった…っ」
 「公、瑾」
 震える。手も、睫毛も、声も。
 頬が生温かい。切り裂かれるみたいに痛いのに、安堵している自分がいた。
 寂しかった。寂しかった。
 自分の半身をもぎ取られたみたいだった。
 伯符も同じように寂しいだろうかと、許されもしないのにずっと考えていた。
 伯符と離れていたことなんて、なかったのに。
 「俺のこと…考えて、くれていた?」
 「ど、どれ程考えたとっ…思ってる!」
 ひりひり痛い目尻に、孫策の唇が触れる。
 なんでこんな、気持ちいいんだろう。苦しいのに、心地よかった。
 もう、このままでいいですか。

 「引き留めてやれなくてごめんな。追いかけてやれなくてごめんな。迎えにいけなくて、ごめんな」
 「伯符……」
 伯符に、こんな風に謝られたのなんて、初めてだった。
 「ごめんな」
 ここに来てから、いちばん真剣なまなざしだった。
 ああ、もう。
 「はくふ、はくふ……」
 もう、このままでいい。
 孫策の襟元にしがみつく。こんなに強く握りしめて、離さないつもり。
 気づいたら、声を上げて泣いていた。
 孫策の手が、背中に回されていた。大きな手のひらを、失いたくなかった。
 誰かに気づかれてはいけないと噛みしめたくちびるは、簡単にふさがれる。
 今まででいちばん優しい口付けだった。
 これを、手に、入れたら。


 「落ち着いたか」
 「ええ」
 どれほど泣いていたか。
 ようやく泣きやんだ私の額に、孫策の額が重なる。
 「熱、まだ少しあるな」
 「泣いた、から」
 くしゃくしゃになった髪を、孫策の指が梳いてくれる。
 「お前の髪、すぐに元に戻るのな」
 「うん」
 「簡単にこぼれ落ちるんだ」
 さらさら、さらさら。
 ずぶ濡れになっていたのが嘘みたいに乾いた髪が、孫策の手からこぼれる音がした。
 「もう、俺のそばから離れるな」
 「伯符、」
 怖い。
 「公瑾?」
 一瞬、顔を歪めたのを孫策は見逃してくれなかった。
 「いやか?」
 孫策の眉がひそめられる。
 私はいつまで、伯符にこんな顔をさせるつもりなんだろう。
 「……そうじゃない」

 「だったら、ずっと俺のそばにいてくれ」
 ずっと?
 「だったら、」
 「公瑾?」
 そばに?
 「だったら、誓って」

 私を一人にしないと、誓って。


 手に入れたら、またなくしますか。


                   続く
| 田丸まひる | jurer | 20:39 | comments(1) | trackbacks(0) |
jurer 第17話(張河)
 「雨、止まねぇなぁー」
 いくつもできた雨潦を蹴散らす。
 あの頃も、こんな日が確かにあった。
 周瑜が父に耳を塞がれて眠る頃、俺は一晩中まんじりともせず。
 不確実な夜明けを迎えたものだった。
 雨が止まずに暗いままの、そんな、うろんな朝だった。



 互いに、自分のことしか考えられない子供だった、と思う。
 周瑜は一つも、自分のことを分かってくれなかった。
 自分は一つも、周瑜のことを分かってやれなかった。
 『大丈夫。伯符は伯符のことをしなよ』
 従軍後、多分、こういうことを言われたのが一番腹が立った記憶がある。
 あんまり腹が立って、この台詞だけはやたらとしつこく覚えているのだが、周瑜が知る由もない。
 俺に気遣うような、まるで分かっていやしない言葉が、他のなによりむかついた。
 周瑜は俺を、何一つ分かっちゃいなかった。
 周瑜は俺を、何一つ分かろうとしてくれなかった。 
 「でも俺も、分かって欲しいと思うばかりだったなー・・・」
 人のいない場所を探して、最終的に厩にもぐる。
 そういえば、子供の頃も一人になりたいときはよく来ていた。
 「あいつのこと、分かりたくなかったもんな」
 周瑜の鹿毛がいたので、鬣を撫でてやる。優しい目の、馬だった。
 「お前の方が、よく分かってそうだよな」
 俺は今でも分からん。
 低く呟くと鹿毛が小さく鳴く。もう一度撫でると、なつく仕草をした。
 でも今は、分かってやりたい。
 答えが、欲しい。
 このままでは、苦しい。
 答えが、欲しい。
 何だか、泣きそうになってきた。
 「お前のこと・・・分かりたい」
 やっぱり。たまらなく、愛しい。
 だから、答えを。




 「公瑾、起きてるか?」
 返事はない。まだ寝ているのかと、少しだけ持ってきた食物を卓に置いた。
 幕舎は暗く、燭台を探す。 
 周瑜の眠る、寝台の前にあった。
 「寝てる、よな」
 明かりを灯すのはやめ、周瑜の顔を覗き込む。側に座り込み、思い立って、手を握った。
 さっきは、突き放した手だった。
 幼すぎた頃には、離れないと思っていた手だった。
 「・・・細いな、ちゃんと食ってたのか?」
 強くすると折れそうで、できるだけ優しく握る。
 あの頃は力一杯握ったって、まだ大丈夫な気がしていた。
 変わってしまったのは、どちらの方なのだろう。
 「俺に会わない間、何してた?」
 返事はないと、知りつつ聞く。
 返事はないと、分かっていたから聞けた。
 再会してすぐに尋ねそうな質問は、そういや何も聞いてない。
 「どんなことを、考えていた?」
 いつの頃からか。俺は周瑜に問うことを、恐れ始めた気がする。
 望むような答えは得られないのだと決め付けて、問うことを避けた。
 「どんな、気持ちだった?」
 その代償が、別離だった。結局俺は、何も分からないまま。
 「俺は・・・寂しかったよ。苦しくて、離れたくて、お前が去ったときにはほっとした。でもどんなに辛くても、お前がいないのは寂しかったな」
 周瑜の手を握る手が震える。
 こういう情けないところだけ、多分父とは違うんだろう。
 周瑜を理解できていた父とは、違うんだろう。
 だから、周瑜の手も震えていたことにも、気付けなかった。
 雨の音が、消える。
 消えたように、思った。
 
 「・・・たし、だって・・寂しかった・・・っ」
 
 頭を上げる。
 顔を褥に押し付けて、周瑜は震えていた。
 「公、瑾」
 「私だって・・・寂しかったよ」
 声まで震わせて。
 まるで、泣いているような声だった。
 泣いているのかもしれない。再会した後、どんなひどい言葉を投げつけても泣かなかった、周瑜が。
 「それは・・・父上が、いなくなってしまったから?」
 顔が見たくて褥をを引くと、周瑜は捕らわれない方の手で咄嗟に隠した。
 赤い唇が、戦慄いている。
 「伯符がっ・・・いなかったからっ、だよ。文台さまとは会えない時はたくさん・・ったけど、伯符と離れたことなんかっ、なかったじゃないっ」
 手を強く握り締める。折れない。弱いけれど、握り返してくる手は過去の過去にしか、覚えのないものだった。
 目の奥がじくじく熱い。
 泣き出さないように、奥歯を噛み締めた。
 「俺のこと・・・考えて、くれていた?」
 ――――ああ、もういいよ。
 「ど、どれ程考えたとっ・・思ってる!」
 どんなに傷ついても、力一杯愛したい。
 分からずにはいられない程、愛してやる。
 「俺、お前に言わなくちゃいけないことがある」
 手をどけて、赤く滲む目尻に口付けを落とす。
 「引き留めてやれなくてごめんな。追いかけてやれなくてごめんな。迎えにいけなくて、ごめんな」
 もう俺は逃げないから。
 お前のことを、教えて欲しい。



                  続く
| 張河子静 | jurer | 01:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第16話(田丸)


 自分は、振りはらおうとした手だった。
 自分は、離したくないと思った手だった。
 離されたくない。
 伸ばした手は、簡単に突き返された。
 「ちゃんと寝てろよ」
 目を閉じる、できる限り強く。
 「うん、」
 孫策が外に出て行くまで、その足音を聞いていた。
 きりきり、きりきり、目の奥が熱い。
 目を閉じる。何もこぼれないように。


 二人ともまだ幼さが抜けきっていなかったころ、私が熱を出すたびに、孫策が様子を見に来ていた。
 「伯符、風邪だからうつるかもしれないよ」
 「大丈夫だって。お前の風邪がうつるほど柔じゃない」
 「でも、」
 「いいからお前は大人しくしてろ」
 ことあるごとに熱を出す私のそばには、いつも伯符がいた。
 私や家人がいくら止めてもだめだった。
 「冷たいの、額に当てとくと気持ちいいだろ」
 屈託なく笑う孫策を見ていると安心して、でも自分ばかり熱を出すことが悔しかった。
 「だからって、伯符が替えに行ってくれなくていいのに」
 少しでも拗ねた様子を見せると、軽く汗ばんだ髪をくしゃくしゃにかき混ぜられる。
 「いいんだよ。俺がやりたくてやってるんだから」
 「……ごめん」
 「謝るなよ」
 「うん」
 うれしいと、伯符がそばにいてくれてうれしいと、素直に思っていた。
 だってそれ以上のことなんて、なかった。
 「俺がそばにいるから、な」
 「うん」
 「大丈夫だからな」
 「うん」
 眠りにつくまで、たぶん眠ってしまってからも、ずっと手を握っていてくれた。
 ずっと手を握っていた。
 「早く治せよ」
 このままずっと、そうしていくのだと思っていた。
 文台さまが現れるまでは。従軍するまでは。


 「なんでだよ」
 伯符は、怒っていた。
 「なにが?」
 私は、分からなかった。
 「なんでお前が熱を出したら、父上のところで寝るんだよ」
 決して激情にまかせていたわけじゃない。
 ひと言ひと言絞り出すように、孫策は怒っていた。
 「だって文台さまがそうしろっておっしゃった」
 でも、分からなかったのだ。
 どうして孫策がそんなに怒っているのか、分からなかったのだ。
 「お前の看病は、俺がするのに」
 「大丈夫。伯符は伯符のことをしなよ」
 なんで、気がつかなかったのだろう。
 「父上の方がいいのか」
 「なにが」
 「俺より、父上の方が好きなのか」
 泣きそうな顔をしていたのに。
 「そんなの、」
 私はもう違うものしか、見えていなかった。
 「そんなの、分からない」
 「なんでだよ、公瑾」
 なんでだろ。
 「公瑾、」
 「ごめんね」
 珍しくあっさり熱が引いたその夜、文台さまに抱かれた。
 私が望んだ。


 何を取り返せると言う。
 自分が手を離したくせに。
 右手にも、左手にも、孫策の手はもうなかった。
 どれほど眠っていたのか分からない。
 目が覚めても、一人だった。


                    続く
| 田丸まひる | jurer | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第15話(張河)
 優しく、優しく突き放す。
 そうすることが、最後の矜持のように。




 どうしようもない矛盾の中に、身を置いているのだと言う自覚はあった。
 周瑜が腕にすがりつく。
 僅かな間でさえ、寂しかったのだと言わんばかりに離れなかった。
 「風邪を引いて、不安になったか」
 矛盾している。
 頭を振って否定する周瑜を、正直俺は持て余した。
 俺も、周瑜も。矛盾している。
 優しくされたくないくせに、優しくされないと壊れそうな周瑜と。
 いなくなって欲しいと願いながら、逃げる力を失った周瑜に安心する俺と。
 ここはひどく居心地が悪く、耐え難いほど心地よい。
 「むせないようにしろよ」
 白湯を持つ手に添えた手は、振り払われなかった。
 むしろ、もう片方の手で離れないよう阻まれた。
 何だろうな。この、耐え難い。
 「……ない、で」
 「なに?」
 器を置いた周瑜の手が、俺の袖を掴む。
 強く押し付けたせいで、指の先が白かった。
 「……に、ないで……」
 か細い声。
 蜻蛉の泣くような。
 しかし、俺は確かに聞いた。
 「・・・・・」
 この、耐え難い、心地よさ。
 この、耐え難い、優越感!
 「・・・・・」
 あ…あ、くだらなすぎる。弱みにつけ込んだ優越感か、反吐が出そうだ。
 周瑜は泣かない。でも、今にも泣き出しそうだった。
 
 一人にしないで。

 「……分からないよ、公瑾」
 こんな時だけ甘えるんじゃないよ。酷じゃないか。
 「公瑾」
 この優越感は危険だろ。今だけなんだろ。後で痛い目見るんだろ。
 ・・・だから、俺は突き放すよ。優越感ごと突き放さなくては。
 「聞こえない」
 それでも、お前が痛まないよう。
 優しく、優しく突き放す。
 俄かにはそうとは分からない程、優しく。
 頭を撫でて、抱きしめた。





 「一応、聞いとくだけでいいから」
 寝台の横に胡座を敷いて、竹簡をいくつか手に取る。軍の編成やら、輜重の配分やらがまとめられている分を、特に選んだ。
 「徳謀に、お前に軍の内情を確認してもらってるって言っちゃったからさ。もっと気の利いたことが言えれば良かったんだが、悪いな」
 苦笑すれば、周瑜が首を振る。
 一つ一つの事項にいちいち頷く様が、健気で可愛かった。
 たまに、何かを言いたそうに口を開くのを制止する。
 明日聞くから、と笑うと周瑜は少し釈然としない顔をした。
 「・・・何か、懐かしいな」 
 「・・・?」
 くしゃりと前髪を掻きあげて、褥を掛けなおしてやる。
 少し顔色の良くなってきた頬を撫でると、周瑜はくすぐったそうに身じろいだ。
 「従軍する前。お前、しょっちゅう熱出してさ。看病すんの、大変だった」
 「・・・・伯、符に。・・頼んだ・・ぼえ、なかったよ」
 「可愛くないなー」
 従軍する前。多分一番、幸せだった頃だ。
 「着替えるか?薬効いて、汗かいただろ?」
 周瑜の衣はまだ出していなかったので、自分のものを当ててやる。
 幸せだった頃には大差なかった体格が、確かな差を証していた。
 「ちっとでかいが、我慢、な」
 多分、俺はその衣を明日になったら捨てるんだろう。
 「伯符」
 「ん?」
 「・・・ありがとう」
 苦笑した。
 「そろそろ、寝た方がいいな。明日は庇えんぞ」
 また、髪を撫でて額に口付ける。
 体格はこんなに差が出来たけど。
 あの頃から出来ることは何一つ増えていないな、と思うとおかしかった。
 あの頃出来なくて、今出来ることがもしあるのなら、それは何なのだろう。

 優しく突き放す、ことだけだろうか。
 離れようとした瞬間、周瑜が無意識に伸ばした手を、俺はやんわりと褥の中に戻した。





                  続く
| 張河子静 | jurer | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第14話(田丸)


 馬鹿か、と罵られた。
 足手まといでは困ると、断言された。
 それでも孫策は、馬鹿な足手まといを、まるで壊れ物を扱うように丁寧にぬぐった。
 どうしようもなかった。
 寒くて、喉が痛くて、孫策への謝罪もままならない。
 代わりに孫策の手を握りしめても、まだ寒いのかと新たな褥を掛けられた。
 「薬と白湯を取ってくる」
 優しく髪を撫でられても、何も言えない。
 「静かに寝てるんだぞ」
 一瞬だけ苦笑した孫策が、すぐに背中を向けて外に出て行く。

 怖かった。本当は怖かった。
 出て行こうとする孫策に、必死になって手を伸ばしたが、届かなかった。
 声が出ないせいで、気づかれもしない。
 怖かった。
 一人は。
 あのときと、同じ。


 それから孫策が戻ってくるまでの時間は、長かった。
 実際には、湯を沸かして、薬を用意してきただけなのだから、たいした時間ではないのだろう。
 でも、待つ時間ほど長く感じるものはないと、誰かが言ったか。
 眠れるはずなどなく、ただ褥の奥で膝を抱えていた。
 嫌な雨。足音が、全然聞こえない。
 孫策がいつ帰ってくるのかも分からない、不安ばかり感じていた。
 「公瑾、寝ているか」
 だから、孫策が薬と白湯を抱えて戻ってきたときにはもう、抑えきれなくなっていた。
 「公瑾、」
 孫策が持ってきたものを置く間も与えず、その腕にすがりつく。
 伯符の腕は、あたたかかった。
 思わず爪を立てそうになるのを、こらえた。
 「どうした、公瑾」
 反対側の手で薬と白湯を置いて、その手で孫策が私の髪を撫でる。
 乾いてきたな、火をつけてよかった、と軽く梳かれる。
 それでも手を離さない私を、どう思っただろう。
 「風邪を引いて、不安になったか」
 違う。そんなわけではない。
 そんなわけではないと、かぶりを振っても、あまり動くなと抱き寄せられる。
 違う。こんな風に、優しくされていいはずがない。
 それなのにこの距離を、これ以上広げたくなかった。
 「お前、苦いのは嫌いだったな」
 でも我慢しろ、と安心させようとする笑い声が聞こえた。

 目の奥がきんきんと熱くなる。
 でも、涙は出なかった。
 「むせないようにしろよ」
 白湯の器を持つ手に、手が添えられる。
 振りはらいたい。離したくない。
 「そんなに眉しかめて。苦いか」
 目の奥が熱いけど、涙が出なかった。

 「……ない、で」
 白湯を飲んでもからからの喉が、痛い。
 「なに?」
 「……に、ないで……」
 「分からないよ、公瑾」
 ひゅるりと喉が鳴る。
 「公瑾」
 一人にしないで。


                続く
| 田丸まひる | jurer | 13:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第13話(張河)

 うるさい、うるさい、うるさいなぁ。
 こうまで煩いのは俺の頭の中の問題が、何一つ解決されずにごった返しているせいだろうか。
 頭の中でざんざら、ざらざら。
 神経に響くよ、胸くそ悪い。




 目が覚めて、それがひどすぎる雨のせいだと気付いた。
 「んだよ、これは・・・」
 あれほど晴れろと祈った裏切りに、額を押さえて息を吐く。
 耳にするだけで、諦めのつきそうな大雨ではとても進軍は望めそうになかった。
 「こんな中進んでも、病人を出すのが落ち、か。・・・公瑾?」
 ふと、隣で眠っているはずの周瑜がいないことに気付く。
 「あいつ・・・」
 周瑜には、まだ専用の幕舎を与えてはいない。誰かのところに行っているとも考えがたかった。
 室内に目を走らせると、周瑜の履が目に入る。
 入り口の幕を開けて厩を確認すれば、周瑜の馬もちゃんと繋がれていた。
 「何、してんだよ・・・!」
 もはや確定に近い悪い予感に歯噛みする。
 土砂降りの中、周瑜の足跡は消えて一つもない。
 裸足で遠くには行くまいと、兎にも角にも駆け出した。
 ああ、行くさ。追い詰めたのは俺なのだからな。
 だがお前、あまりに浅はかなのではないか?
 「あまり、甘えた真似をするな・・・!」
 


 昨夜の周瑜の熱が嘘のような有様で、俺は強く舌打ちした。
 雨水に埋もれる周瑜は重く、土砂に足をとられる。
 晴れたら見えるかと思った、その道はなかった。
 結局二人、同じ幕舎に戻る。
 やっぱり煩いのは雨のせいじゃない。
 整理されない頭の中の病根のせいだ。

 「お前は、馬鹿か!?」
 濡れた衣を剥ぎ、大きな帛で周瑜を包んで別の帛で頭を拭く。
 途中途中の、罵るような言葉は勝手に出てきた。
 「お前が何のためにここに来たかは分からないが、遊びで来た訳ではないだろうが」
 きっと本当はこんなことを、言いたかった訳じゃない。
 寒さで全身を震わせ今にも崩れ落ちそうな周瑜は、それでも真摯に俺を見る。
 声にならない声を、必死に出そうとしているようにも見えた。
 「来た途端、無謀をやって体調を崩すような足手まといでは困る」
 ごめんなさい。
 多分そう、周瑜は唇を動かした。その唇も、色を失って震えている。
 寝台に横たわらせ、あるだけの褥を掛ける。少しでも暖まるよう、火も熾した。
 「どちらにせよ、この大雨では進軍は無理だ。今日は一日休め」
 消え入りそうな貌で見上げてくる周瑜の髪を撫でる。
 「薬と白湯を取ってくる。静かに寝てるんだぞ」
 今の周瑜にとって、自分がいるのがいいのか悪いのかわからなかった。
 外は冷や水が降りしきり、どんより昏い。
 先行きを暗示するようで、嫌だった。




 「殿、ここにいらっしゃいましたか」
 湯を沸かし、器に移そうというところ、背後から声がかかった。
 「徳謀か」
 用意した薬をとっさに隠し、振り返る。
 何かにつけてうるさい程普が、湯を運ぶのも他の者にやらせればいいと言うのを、よいと一言片付けた。
 「今日は御覧の通りの雨だ、進軍はままならん。全軍待機、と伝えろ」
 「はっ」
 命に、程普は手を組む。そこで足早に去ろうと思ったが。
 「殿、公瑾は・・・?」
 言うと思った。
 周瑜のことを最も快く思っていない程普に、今の状況を有りの儘伝えるのはよくない。
 「・・・あいつには今、我が軍の内容を確認してもらっている。他の勢力とも見合わせて、まずは俺だけに報告しておきたいことがあるようだから、あまり人を近づけないようにしてもらえるか」
 だから、出来る限り反論の余地がないよう早口に俺は言う。
 渋い顔をしたが、程普は頷いた。
 器を盆に乗せて、横をすり抜ける。
 出る寸前で、呼び止められた。
 「殿、あまり・・・公瑾を甘やかすことのなきよう、お願いしますぞ」
 何を、どこまで知るのやら。
 心中いらつく気持ちを抑え、苦笑した。
 「俺は・・・甘やかしているつもりはないが?」
 俺も俺で、よく言うよ。

 甘やかしているのだろうさ、存分に。
 所詮それが。
 惚れた方の弱みというやつなのだろうから。




                   続く
| 張河子静 | jurer | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
jurer 第12話(田丸)
 ひどい雨。
 どうしようもない土砂降りの音で目が覚めた。

 隣で眠っている孫策を見たときは、思わず笑い出しそうになった。
 肩にかかっていた腕をずらしても、孫策は目を覚まさない。
 顔をのぞき込むと、自分の長い髪がこぼれ落ちた。
 それを払いのけても、ぴくりともしなかった。
 高い鼻梁、広い額。ねえ、大人になったね。
 寝顔はそれほど似ていなくて、安心した。
 文台さまと違って、あまり髭の生えていない顎にくちびるをつける。
 少しだけ、ざらりとしていた。
 ねえ、なんでこんなところにいるんだろう。

 いっそ全部、忘れてしまえばよかったのに。
 孫策は私を抱いている間中ずっと、苦悶の表情を浮かべていた。それをずっと、見ていた。
 これは愛し合っている行為なんかじゃないと、お互いに気づいていた。
 でも途中でやめられなかったのは、離れられなかったのは、もうこの夜をどうやって過ごしていいか分からなかったからだ。
 ただ、ただそれだけだったのかもしれない。
 重なり合っていたところの温度も、孫策の汗のにおいも鮮明に思い出せるのに、誰の名前を何回呼んだのか、全く思い出せなかった。
 ひどすぎる。
 むき出しのままの肩や足が、ひどく冷えていると思った。
 ひどすぎる。
 寝台から降りても、孫策は目を覚まさなかった。

 ひどい雨。
 外に出た途端、ずぶぬれになった。
 髪も、額も、肩も、腕も腹も足も、孫策に触れられた、あるいはくちづけられた部分が急速に冷たくなっていく。
 心地よい、と思った。
 洗い流されているみたいだ、と思った。
 体に張り付いた衣だけは多少不快で、はぎ取ってしまいたかったが、思いとどまった。
 そのまま少し歩く。
 裸足のまま出てきてしまったことに気づいたけれど、どうだってよかった。
 ひかりは射してこない。
 自分の足跡が簡単に消えてしまうのを見て、また笑いたくなった。
 朝からこんな雨、どうしてくれよう。
 もう誰の名前を呼んでも、道が開ける気はしなかった。
 だったらどこへ、行けばよい。
 可笑しくて可笑しくて、その場にくずれ落ちて笑う。
 雨音が、どんどん大きくなる。
 引っかくように握りしめた土が爪の間に入るのも、かまわなかった。

 だって今さら、誰の名前を呼べばよい。
 どうして。
 どうして?


 どれほどの時間、そこにいたのか分からない。
 ふと、もう伯符が目覚めたかもしれないと思ったときには、時間の感覚が失せていた。
 いつの間にか、震えが止まらなくなっている。
 体の芯が冷え切っているのが分かった。
 なのに、喉が灼けるように熱い。
 「――っ」

 誰の名前を、呼ぼうとしたんだっけ。
 ――声が出なかった。


                    続く
| 田丸まひる | jurer | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
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